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熊西の風景

熊西の風景

北九州市立 熊西公民館 館報「熊西」<第65号(昭和62年9月1日発行)~第73号(平成元年4月15日発行)>より抜粋  
  
「黒崎祇園と太鼓の由来」 寺坂日年氏寄稿
「山寺秋暮」~「熊西町」 山本文雄氏寄稿
「与助茶屋」 八幡市史より

黒崎祇園と太鼓の由来

黒崎祇園祭は須佐之男神をお祭りする行事で、国土開発、厄除け、産業増進を祈願します。  
男神は武勇の神としても知られ京都祇園の八坂神社、出雲の須佐神社はその代表的な祇園のお社です。  
  
黒崎祇園は昔から筑豊地方での有名な神幸でした。奉納の山笠と大太鼓、小太鼓、鐘、法螺貝の合奏は、わが郷土独特のもので、勇猛邁進の意欲をそそります。織田・豊臣時代から大名の出陣に際して、士気昴揚のため祇園囃子に神霊を奉じて進軍したといわれます。古老の話によれば黒崎祇園太鼓は徳川時代の初期黒田藩祖長政公が慶長九年に黒崎城を築城し、岡田宮祇園社、春日宮を敬い多数の神田を奉納した際そのお礼に山笠を建ててこれを祝った時に始まったと言われます。従って、黒崎独特の太鼓の調子は、合戦のとき士気を鼓舞するために叩いた陣太鼓の突撃の調子を大太鼓に取り入れ小太鼓、鐘はその伴奏的役割を果たしていました。このリズムが代々黒崎山笠によって伝えられてきました。  
  
幕末から明治初期の世情騒然とした中で何時となく消えていましたが、明治二十二・三年頃黒崎に流行した、悪疫の厄払いのため、七月十一日から三日間山笠を建てて各氏神様に奉納したことによって復活しました。  
  
明治四十四年九州電軌々道会社による軌道敷設のため山笠の構造が縮小されましたが、飾付は年々競って絢らん豪華になりました。この山笠も昭和十ニ年支那事変以後の戦時体制の中で極めて簡素となり中止する年を経て戦後二十二年に復興し今日に至りました。現在の山笠太鼓のリズムは初期の大太鼓を主体としたものでなく、明治期の復活から小太鼓を主体として大太鼓は伴奏的調子に変化してきたと言われます。  
  
しかし、今も昔も変わらないのは、大太鼓の勇壮な突撃調とマーチ調の小太鼓の間の取りかたです。これに戦場の乱闘を想わせる鐘の音。さらに山笠の進退を指図する法螺貝の音と四調一体の独特な調子が、黒崎祇園太鼓の特色です。今では祇園太鼓競演と山かき競演が催され、北九州市の三大祇園祭として益々盛んになってきました。

山寺秋暮

脇息に木菟一羽 秋寒し   
  
元禄十一年、俳人各務支孝が山寺の秋を詩った句である。(岡田宮の境内にある黒崎十二景の一句)   
今、一宮神社、熊西中学校があるあたりを昔は山寺といった。今の山寺町にある熊西公民館付近は行部田といっていた。山寺は、原始時代から人が住みつき、古代から由緒あるところで古跡の多いところであった。   
  
弥生時代の土器や石器の出土がこてを物語っている。山寺には神武天皇ゆかりの王子宮(今の一宮神社)のほか釈迦堂、海蔵庵、桂昌院などのお寺も近世まであったが、後に開けた黒崎に移っていった。   
文政三年(一八二十年)熊手村の古文書にはこう書かれている。『 往古、熊手村という村名なし。菊竹村と言へる村あり。今の山寺、貞元を言う。熊崎は菊竹村に属し、熊崎を改め熊手村となったよし。いつの時から山寺、貞元が熊手村の枝郷に成候は相知らず。なお、山寺、貞元に古跡多しと。 』   
このように、山寺は中世までは、黒崎よりも開けていた。  
  
慶長九年(一六〇四年)道拍山(現在の通称城山)に城が築かれてから、黒崎は宿場町となり開けたので、山寺の寺院も民家も移っていった。王子神社には全国でも珍しい「ヒモロギイワサカ」という、岩石を敷きつめた神武天皇の祭場がある。また、東方二五〇米に御手洗清水(現在、御手洗公園西側の湧き水)があり、この神社の御手洗所であったといわれている 。昭和の初期まで、民家の周りは川と水田で、ホタルが乱舞しなかなかロマンの郷であった。

貞元(さだもと)

山寺の北、筒井の西に接した地域を昔は貞元と呼んだ。電停の熊西は、最近まで貞元といった。今の熊西一丁目がほぼ昔の貞元である。貞元は山寺と並んで 、古代から人の住んでいた所で菊竹村と称し、黒崎の本村であった。往古の貞元は、洞海湾の海水がひたひたと迫る臨海地(古文書では菊竹ケ浜)であったが、宝暦十二年、(1762年)黒田藩はこの入江を埋立て新田地を開作した。  
  
古文書によれば、その面積二十三町六段余、石堤一千七十間とある。石堤は湊の畠より採ったとある。現在三菱化成黒崎工場敷地の南端部はこの開作地である。 この開作地に寛政六年(1794年)十五戸の農家が移住し、新地の集落を形成した。 新地が三菱合資会社の買収のため、貞元に移住したのが大正八年で熊西一・二丁目の根幹である。 新地の四十戸余りの移転で、十戸程度の貞元は急速に発展した。当時、国道三号線は開通しておらず、 新地の往還道に通じる曲がりくねった狭い道が南北にあった。 電車は皇后崎には留まっても、貞元には電停はなかった。熊手の長尾にある岡田神社は、亨保年間(一七一六~三五)に貞元から移されたと言われている。   
  
貞元にあるときは、八所神社とも称していた。現在、 熊西一丁目の大日堂の敷地に岡田宮旧跡碑が建っている。  
貞元の氏神様、諏訪神社は山寺の東、諏訪山の地にあった。   
現在は一宮神社に合祀され、その跡地は八幡西区役所横の御手洗公園の遊園地になっているが、古松のそびえた高台であった。

皇后崎(こうがさき)

皇后崎は鷺田台地(青山の丘陵地帯)の北端部で、昔は海に突出した岬であった。 また、市の瀬の奥山に源がある割子川の河口でもあり、神功皇后上陸の伝説の地として有名である。現在、電停前の石垣上にその史跡碑が建っている。この岬は、鷺田台地では一番高く、洞海湾と向う岸を一望できる所であった。  
  
頂上には、志度寺という帆柱四国八十八ケ所の札所があった。 この札所は新地集落の移転に伴い、いまは熊西一丁目の大日堂に移されている。現在廃校になっている予備校の南側は新地集落の共有地で、村人が桜の木を植えて公園化し、後には後楽園と称して八幡市の桜の名所であった。今は個人の所有地になっているが、大きな桜の木は今も素晴らしい花を咲かせている。皇后崎の電停は大正三年(1914年)黒崎折尾間が開通した当時からあった。黒崎から折尾に通ずる道が鉄道を踏み切って通っていたからである。  
  
また、変電所もすぐそばに開設され、七十四年を経た今も働いている。当時の子供たちは、唸って回る変電機を珍しげに、外から見学したものである。皇后崎に人家が建ったのは大正八年で、三菱の買収で移転してきた六戸が始まりである。 電停前のタバコ店は雑貨店として既に一軒だけあった。 「放浪記」を書いた林芙美子が幼い頃、行商の親について、この店の前を通っていたということを聞いたことがある。  
  
鷺田台地の西側の平地は、昔は水田ばかりで鷺田の池から引いた灌漑水路には川魚がたくさん泳いでいた。
鷺田の池は上池と下池があったが宅地化とともに埋め立てられて、下池は青山小学校敷地に、上池はゴルフ練習場になっている。昭和三十二年に筑豊電鉄が開通し、萩原電停もできて、この地域は急速に人家が立ち並んだ。区画整理が行われ、道路の整備が進んで、住宅化が加速した。
国道三号線と電停を南北にもつ皇后崎は、その便利さからますます住宅地として発展することであろう。

幸神(さいのかみ)と曲里(まがり)

幸神(さいのかみ)は八幡市時代からの町名で、今の幸神一丁目にある鞘之神明神にちなんでつけられたものである。この明神は長崎街道にあった道祖神で、昔から村人や旅人から崇められていた。
その前を通るときは、足が疲れないという言い伝えで、奉納されたわらじめがけて路傍の小石を投げ込んだものである。徳川時代に街道の道のりを示した一里塚跡も幸神三丁目に残っている。  
  
この街道筋には早くからわずかの人家があったが、昭和の初期に筒井通り(200号線)が開通してから裏通りになった。
曲里(まがり)は幸神の北方に続く地域で、町名は小字名からとっている。 その地名の由来は黒崎宿を出た長崎街道が乱橋(菅原町にある)で大きく左折していることによるという。  
  
往時の曲里は街道の松並木があるだけで、大正の末には草競馬が行われていた。途中でコースをそれるものなど珍事続出で、観衆をわかしたものである。 曲里の松並木は昔の長崎街道を偲ぶ唯一の面影であるがいまではわずかに四本を残すにすぎない。北九州市は昭和四十六年に文化財に指定し、この地区を公園化している。公園に植えられた若木の松も、今では成長して松林になってきた。 この林の中に朽ち果てた古松の株や残った古松の切り傷(戦時中、松根油を採るために刻んだ)を見ると、感無量の思いである。  
  
松並木の街道は高台で江戸時代、蜀山人は「坂を下ると赤土の崖あり松の並木の中をゆくゆく坂を上り下りまた坂を下りゆけば黒崎の内海見ゆ」とこのあたりを描写している。皿倉の山並もここからよく見える。
この曲里に三菱化成黒崎工場の社宅が建ったのが昭和十三年で、今はこの社宅もとり払われ、北九州プリンスホテルをはじめ都市型スポーツ、レジャー施設の工事が進んでいる。
いま、曲里は古い歴史の上に新しい歴史を積み重ねようとしている。 風景もまた、そのコントラストが見ものである。

菅原町(すがわらまち)

町名は昭和九年頃、この地にあった菅原神社に因んでつけられた。 この社は現在、黒崎の岡田町にある岡田神社の神殿の横に小さなほこらで祭られている。移転前の菅原神社は通称湊天満宮と呼ばれていた。
菅原道真が祭神で、今の菅原町にある消防分団のところにあった。現在、ここは平地になっているが、昭和六年から始まった区画整理前は長崎街道の松並木に続く高台で神殿の周囲は松や榎で覆われていた。  
  
毎年の放生会(九月)には奉納角力が行われ、芦屋遠賀地方から豪の者が集まり、黒崎勢はいつも負けてばかりだった。 元気のよい若者は、猿のように土俵の周りの木によじ登り、特等席ぶって上から声援をしていた。この奉納角力は大正末期、近郷に知られた風物詩でもあった。  
  
乱橋もこの社の間近で、岡田神社にある「黒崎十二景」は次のように解説している。  
  
『乱橋は水垂橋ともいう熊手構口の西端で、この川(撥川・・・年金病院の西側を流れる川で新川とも言う)は水清く夏の蛍が飛びかよい、湊天満宮の松の枝が拡がって蛍の光に松の緑が暗夜の中にかすかに浮かび上がる一幅である。』  
  
菅原町は区画整理前は小字の曲里に属し、入家は天満宮付近にあるだけで周辺一帯は広望とした蓮根田であった。その中を流れる撥川の堤防は貞元から熊手に通ずる幹線道路であった。
菅原町に接する黒崎町五丁目に有名な黒崎貝塚がある。昭和六年黒崎駅前の区画整理中に名和羊一郎氏によって発見されたものであるが、今、熊西郵便局の東方百メートルの駐車場の角にその史跡碑がある。  
  
その裏面には『此の地はしじみ、あか貝、かき等の貝類及び縄文土器、骨器、石器を出土する。上古の道跡地なり』と刻まれている。この貝塚は縄文時代のものといわれ、三五〇〇年前この付近に人が住んでいたことになる。岸の浦町一帯は、往時、洞海湾の入江で、帆柱山と花尾山との谷間を源とする撥川は滝のようにこの入江に流れ込んでいたであろう。

筒井町(つついまち)

筒井町という町名は、まだ人家のない頃からあった小字の「筒井」からつけられた。
昭和初期に開通した国道ニ〇〇号線も当時は筒井通りと呼ばれていた。この通りのなかった頃の筒井は、広々とした一面田んぼの平野で、多良原池(十三塚基地東)から発した曲里川がこの平野を北に向って一直線に流れていた。この川の堤防は田んぼより一米位高かったが、流れが急で氾濫することはなかった。川から田に引き込む水路は堤防に竹筒や土管が埋めてあったものと思われる。  
  
「筒井」の語源はこのことを謂ったものであろう。筒井の西側に帯状の台地があり、その筒井側は段々畠で、周りに数多くのハゼの木があった。このハゼの木は藩が財政の強化策として植えさせたということである。
ハゼの実は山寺のいた場(ハゼの実を搾り油をつくる作業場)でローソクやびんつけ(女性の髪につけるもの)の原料として他藩に売られていたという。この台地と筒井の田んぼは子どもたちにとっては絶好の遊び場で、竹やぶに陣地を、田んぼは一大決戦場であった。台地からの凧あげは眼下の田んぼから吹き上げる風にのって、面白いほど高く舞い上がった。こうした環境の中に、たった一軒養豚場があった。八木下ハムの前身である。通学する子供たちは、しばしば愛きょうのある豚を珍しげに見学したものである。  
  
筒井通りは長崎街道に代わる新しい国道で、筒井町はこの道路の敷設によって形成された。
筒井小学校、電話局、病院、銀行、商店が建ち並び八幡西区役所が設置されるなど、街区が形成される中で筒井のシンボルであった曲里川も、今はカラー舗装の並木道(ほほえみ通り)の下に姿を隠した

鷺田(さぎた)

青山一丁目から三丁目の地域を小字で鷺田と呼んでいた。青山小学校の校舎と運動場は鷺田池の下池を埋め立てたところにある。この池は安永六年(1777年)、藩が両側の丘陵地(皇后崎公園と青山女子高校のある両丘陵地)を利用して鷺田堤を築き宝暦十二年(1762年)に開作した新田地、貞元・御開の灌漑用水池として造ったものである。青山小学校の校門の位置に下池の堤防があり、用水排出のための井樋栓があった。  
  
この栓の管理は水あて人が行い、他人は一切あたることができないという掟があった。
夏休みになると、子供たちはよくこの池で泳いだ。着物と草履はおい繁った松林の中にかくし、時には管理人においかけられながらも格好の遊び場であった。鷺田には、昭和の初期まで建物は一軒もなく向山と呼ばれていた鷺田池の東側丘陵は、松、山桃、椎の木などの生えた雑木の山で、松茸や栗、草地では薬草のせんぶりが採れたのでよく出かけたが、鷺田池西側の丘陵は相当に奥深い山のようで、子供たちは誰も遊びには行かなかった。鷺田池の堤防下に釣り堀の一軒屋ができ、昭和八年に今はもうないが、池の西側に八幡市の塵芥焼却場が建った。工費二万余円という記録がある。  
  
聖ヨゼフ養老院(現在の養護老人ホーム)は昭和十一年に山寺にできた黒崎修道院(現在煉獄援護修道会)より後に建ったが、今の建物は建てかえられたものである。
鷺田西側の丘陵には今では萩原電停、商店街に続いて高層住宅が建ち並び、昔日の面影はない。
東側の丘陵は、八幡西区が誇る皇后崎公園として整備された。その素晴らしさを、熊西二丁目青山スカイハイツの庄司続氏はその著書「皇后崎公園賛歌」の中でこう述べられている。   
  
「四月になると、小山一面が花の露に包まれてしまい、爛漫の春を謳歌する次第である。見上ぐれば花の上に花あり、見下ろせば花の下にも又花が重なり、右を向いても左を向いても花の帷りに包まれ、まだ見ぬ吉野山もかくやと偲ばれる壮観である。」と。
鷺田の両丘陵の谷間は、今の青山三丁目で、閑静な住宅地になっている。

熊西町

この町は貞元と山寺の中間に位置し、大正六年、三菱合資会社(三菱化成の前身)の用地買収により、新地(現化成工場の南端部)の集落四〇戸余が大正八年に移転し形成された町である。その頃、黒崎の人びとは、この町のことを成金町と呼んだが、しばらくの間は町名を熊西町新地と言っていた。現在は総戸数四〇〇戸余町も東西に一丁目、二丁目となって発展した。元の新地は、宝暦十二年(1762年)に藩が洞海湾の入江を埋め立てた貞元御開に近村から移住し形成された集落であった。この開作地に移住したのは寛政六年で、開作から三三年後のことである。移住したのは十五戸であったとの記録がある。当時は作付の収穫も思うようにならず、農家はその窮状を数度にわたって藩に訴えている。   
  
大正初期、新地の集落は黒崎から折尾に通ずる幹線道路(JR線の北側)に沿って五二戸の農家が立ち並んでいた。 道路の北側を灌漑用水路が流れ、水はそれぞれの人家の横を抜けて裏の田園に注いでいた。集落の中央部に諸式屋と小間物店が一軒づつあった。 住人の職務は殆どが農業で、銀行や役場に勤める者は二名だけだった。  
  
皇后崎岬の高所から眺めると細長い長方形の田園が開作された新田地の特徴を証明するかのように洞海湾の堤防に向って整然と並んでいた。田園と堤防の間には汐入りを防ぐ汐遊びと称する塀が設けられていた。
田地と家屋を買収した三菱合資会社は、直ちには工場の建設には着手しなかった。大正三年に起こった第一次世界大戦が七年に鎮静化したためである。昭和十年、三菱のタール工場が建設されるまで、貞元に移住した熊西の農業は、三菱と小作の契約を結び十五年余り農業を続けた。買収金をつかんだ戸主は転職をすることなく一生を農業で終わった。

与助茶屋(黒崎街道)

黒崎街道丸山の松並木(現在三菱化成病院の東方)に一軒の茶屋があった。上り下りの旅人は、必ずこの茶屋に足をとめていた。茶屋の主は与助といった。同じ黒崎の熊手町で宿屋をいとなんでいたが、これを長男夫婦にまかせ、孫娘と二人で茶屋を守っていた。 与助は若いころから岡田宮宮司波多野監物に国学を学び歌の一つも詠ずるという風流人であった。  
  
万延元年三月井伊大老を討った志士の一人薩摩の有村次郎左エ門が捕まえられ三月二十日与助は町の人たちとともに見送った。これから時の幕府は諸藩に命じて宿駅の往来を警戒させ浪士の取締りを厳命したが、これは残暑きびしい八月十日の昼下がりのことである。
与助茶屋に二十七、八才の浪士風の武士が腰を下した。酒さかなを求めてよしずのかげでもの静かに飲んでいた。その時茶屋の表を通りかかった、底井野郡代の与力都甲小仲太が、ふと浪士を見つけて茶屋に入って来た。なにかに驚いている風であったが、小仲太は与助の差出す茶をすすりながら「浪士の方と見受けるが、当領では取締まりがきびしいので若しものことがあれば、あなたの両親の嘆きは深からん。早々に当領を去られよ」といった。しばらくして浪士は立去ったが、その時、浪士と小仲太の視線がかすかにふれ、涙の玉が光っているのを与助はみた。三日ほどの後、黒崎中橋の目明し新五郎が茶屋にきて筑前の浪士平野次郎が立回っている様子だからと人相書を与助に見せた。与助はそれを見て「あっ~」とおどろいた。それはあの時の浪士 の顔だったからである。しかし、与助はそのことについては何もいわなかった。
与助は後で知ったのだが、あの時の浪士は平野次郎、そして与力の小仲太はその実兄なのであった。  
  
八幡市史(続編)より

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